石堂動物病院

病院便りこのコーナーでは飼主のみなさまと動物に役立つ情報を
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猫のよもやま話2:「化け猫」のお話

「化け猫」のお話

「化け猫」という言葉は耳にすることもあり、なんとなくイメージできる。しかし、「化け犬」という言葉を聞いたことはなく、それをイメージすることも難しい。
そこで、今回は「化け猫」=「猫の妖怪」のお話を少々。

「化け猫」とは、10年以上生きた猫がその長い年月の間に妖力を身につけ、妖怪化したもので、人に化けて人の言葉を話すこともでき、人を祟り死人を操るなどの様々な妖力を発揮する。
また、同じような猫の妖怪として「猫又(ねこまた)」というものがいる。中国の「仙狸(せんり:山猫の妖怪)」が由来とも言われ、年月を重ねた(20年以上?)猫が化けたものとされる。
外見は猫(巨大猫であることもある)で、尻尾が二股に別れているのが特徴、人に化ける能力を持つものもいる。性格は人間に似て多種多様。凶暴で人畜に害を為す猫又も居れば、元の飼い主に恩返しをする穏やかな性質の猫又もいる。「化け猫」と「猫又」の明確な区別はなく、化け猫の1種が猫又であるという解釈もあります。
猫が妖怪視されたのは、夜行性で眼が光り、時刻によって瞳の形が変わる。足音を立てずに歩く。温厚と思えば時に野性的な面を見せることもある。犬と違って行動を制御しがたい。爪が鋭い。その動きが身軽く敏捷性を持っている。などの特性に由来すると考えられています。

イメージ

さて、このような「化け猫」は、日本の歴史上、いつ頃に現れたのでしょうか?

猫は仏典(仏教の教えを書いた書物など)をネズミにかじられないようにする目的で、中国から仏典が日本に輸入された奈良時代に共に持ち込まれました。上陸後も「仏典の番人」として寺院で暮らし、その数を増やしていったと考えられます。その当時、猫は珍しく、また仏法の守護眷属(仏法の使者/従者の意)のように考えられたので、天皇や公家などの貴族の愛玩動物として飼われるようになりました。

鎌倉時代初期の公家/歌人であり、「新古今和歌集」などの選者でもあった藤原定家の日記「明月記(めいげつき)」というものがあります。これは治承4年(1180)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録で、別名「定家卿記」とも言われています。この日記の天福元年(1233年)8月2日条に「猫又」に関する記載を見る事ができます。

現代文訳 <「奈良からお使いでやってきた小童がこんなことを言ったというのである。
奈良では 「猫又」という獣が現れたと。7〜8名の人が一夜のうちに噛まれ、そのため死者も多く出たという。この獣は結局打ち殺されたのだが、見ると目が猫のようで、体は犬のように長かった>と。

※藤原定家は「新古今和歌集」を嵯峨の小倉山荘(時雨亭)で書き記しています。小倉山荘の場所は二尊院門前の「厭離庵(えんりあん)」(紅葉の季節のみ期間限定で公開されています)と言われていますが、この他にも二尊院、常寂光寺に山荘跡を示す史蹟が残っています。

「化け猫」の第1歩は嵯峨の地から始まったのか・・・、すごいぞ、これは!

同じく、鎌倉時代に書かれた世俗説話集(古今のエピソード集のようなもの)である『古今著聞集』(1254年稿)の中にも「猫又」らしき猫のエピソードが記述されています。

現代文訳 <観教法印の話として、嵯峨の観教法印の山荘に美しい唐猫が現れたのでそれを捕まえ飼うことにした。この猫、お手玉を上手に扱い遊ぶので、法印は猫を愛おしく思っていた。この猫に秘蔵の守り刀をお手玉のように遊ばせようとしたら、その守り刀をくわえて逃げ出し、人が追ったがそのまま姿をくらましたと伝えられている、この猫は魔物が化けていたものと思われる。薄気味悪く恐ろしきことかな。>

鎌倉時代には、ここ嵯峨に「猫又」が居たということか……、素晴らしい!

続く、室町時代の吉田兼好が書いた随筆「徒然草」(元弘1年:1331年)の第89段にも「猫又」に関するようなエピソードが記述されています。

現代文訳 <「山の奥にはな、猫又という化け物がいて、人を捕って喰うそうじゃ」と人々が噂していたら、中のひとりが「山奥まで行かなくとも、ここら辺りでも、猫は年老いたら猫又になって、人を食う事があるらしいぞ」と言いました。それを聞いた、何とか阿弥陀仏という名の僧侶。趣味は連歌で、行願寺の辺に住んでいたのですが、「自分はひとり歩きする事が多いからよほど気をつけなければ」と、思ったそうです。そんな折も折、ある場所で、夜遅くまで連歌して遊んで、さて一人、夜道を帰途につきました。小河のほとりを歩いていたら、何と噂の猫又出現!たちまち飛びついて、喉に喰いつこうとします。僧はびっくり仰天、防ごうたって、腰が抜けちゃって力も出ない。小河に転げ落ちて「助けてエ、猫又だぁ!猫又だぁ!」と悲鳴をあげます。近所の家々から、手に手に松明を掲げて人々が駆けつけます。見れば顔見知りの僧です。「いったいどうなさったんです?」と川の中から抱き起こします。僧は連歌で賞品を取って扇や小箱などを持っていたのですが、それらもすべてびしょ濡れという有様。命が助かっただけでもありがたいとホウホウの体で家に帰って来ました。 ・・・でも実はこれ、飼い犬が、暗くてもちゃんと飼い主を見分けて、喜んで飛びついただけだった。>とかいう軽い笑い話です。

※吉田兼好は晩年、御室の仁和寺近辺(双ヶ丘の麓)に草庵を結び、その地で「徒然草」を書き表したと言われています。この地にある長泉寺の門前には「兼好法師舊跡」と刻まれた石碑があり、境内には吉田兼好のお墓と伝えられている「兼好塚」があります。

江戸時代に入ると、化け猫の話は各種の随筆や怪談集に登場するようになる。中でも人気が高かったのが、佐賀県鍋島の化け猫騒動の伝説を基にした『花嵯峨野猫魔碑史』というお芝居で、全国的な大人気を博したらしい(題名の「嵯峨野」は京都市の地名だが、実際には「佐賀」をもじったものであったそうな)。後年には、講談や実録本として世間に広まった。昭和初期にはこの伝説を原案とした『佐賀怪猫伝』『怪談佐賀屋敷』『秘録怪猫伝』などの佐賀藩に伝わる鍋島の化け猫騒動を扱った映画が大人気となった。

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